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不敬の罪::2013年1月3日 :: Share Books

不敬の罪::2013年1月3日

745 View :: 2013-01-08 19:56:03

登喜子先生のメッセージが刺さったので忘れないうちに。

第Ⅱサムエル記6章1〜9節

ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。
ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている。
彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。
丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。
ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。
こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。
ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。
その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」

不敬の罪


この箇所で、ウザという人がでてくる。このウザは一見なんの悪いこともしてないように思える。
ただ、落ちそうになった「神の箱」を手で押さえただけ。である。
しかし、この行為が原因でウザは命を落としてしまう。
聖書ではこれを『不敬の罪』だと言っている。

新しい車に載せて運び出した


まず第一に彼らは神の箱を『新しい車に載せて運び出した』
これはペリシテ人(異教徒)がおこなった神の箱の運搬方法である。(第Ⅰサムエル記6章7,8節)
彼らは本来なら「肩に負わなければ」ならなかった。(民数記7章9節)

第Ⅰサムエル記6章7,8節


それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。
また主の箱を取ってその車に載せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。

民数記7章9節

『彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。』

聖なるものに対する慣れ


神の箱はしばらくの間、ウザの親であるアビナダブの家にあったと記述されている。
身近に神の箱があり、聖なるものに対する慣れ、疎くなる、鈍くなるということが起きたのではないかと考えられる。
民数記には「聖なるものに触れてはならない」との記述もあり、しっかりと聖書を読んでいて、神に対する畏敬の念があればこのようなことは起こらないのではないだろうか。
イスラエルの王ダビデはこの出来事があって後、恐れ、神の箱を運び入れることをやめた。
しかし、その後運び込まれたオベデ・エドムの全家が祝福されるのを見て、エルサレムに運び入れることを決意する。
そして、その際にダビデは態度・姿勢を変え、神を恐れ、いけにえをささげて、蔑まれるほど喜び踊った。
これは本当の意味での喜びで神を恐れるようになったこと。神の箱を迎えることができることに対する喜びである。

第Ⅱサムエル記6章12〜23節


主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。
主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。
ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。
主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。
ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の主の御名によって民を祝福した。
そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。
ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」
ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。
私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」
サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。

日々の生活のなかで

実際に『聖なるものに対する慣れ』というのは実生活のなかに存在する。
より身近になればなるほど、また、日常の中にとけ込めば溶け込むほど、恐れや畏敬というものは薄れがちである。
形式的なことだけでなく心からの姿勢を日々あらためていきたいと思う。

参考:2013年1月3日早天メッセージ(池田登喜子師), http://www.kuon.or.jp/Bible/Samuel/sam2_6.htm

2013年::いつもよりもっとリアルに…

Written by かにももんが

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